2018年3月15日

精神分析好きな先輩精神科医から勧められた小説 『異人たちとの夏』


もう8、9年前になるが、精神分析を好む先輩精神科医から本書を勧められた。精神分析について一言二言を添えられたような気がするが、完全に忘れてしまった。

どういうきっかけで積ん読に入ったのかも覚えていないが、心理学者・河合隼雄の本を読んでいて、ふと「そういえば分析好きの先輩が勧めていたな」と思い出して読むことにした。

主人公は48歳のシナリオライターで、彼が妻と離婚した直後から物語が始まる。彼は12歳で両親と死別しており、祖父や叔父に助けられてきたとはいえ、どこか孤独感を抱きながら生きてきた。そんな彼が体験する一夏の不思議を描いている。

とても読みやすく、引き込まれていき、途中では涙ぐんでしまった。精神分析好きな先輩が勧めてくださった「精神分析にまつわる理由」は、残念ながら解き明かせないままだったが、そんな深読みができない俺でもとても面白かったので、多くの人にお勧めしたい。

2018年3月14日

カジノから金を巻きあげるエリート大学生たちの光と影に迫るノンフィクション 『ラス・ヴェガスをぶっ潰せ』


全米屈指のエリート名門大学であるマサチューセッツ工科大学(MIT)。そこに通う学生や、中途退学者たちがチームを組んで、ラス・ヴェガスをはじめとしたカジノを荒らしまくる。その方法は、トランプのブラックジャックだ。

1組のトランプを用いてブラックジャックをするとしよう。配られたカードが「使用済み」として排除されていけば、それらを覚えていくことで、未使用のカードを把握できる。これをカードカウンティングという。これに対抗するため、カジノ側は6組のトランプを用いる。枚数が増えればカウンティングが困難になるだろう、というわけだ。

ところが、頭のいい人はいるものだ。使用済みカードの2から6をロー・カードとしてプラス1点、10から13とAをハイ・カードとしてマイナス1点でカウントしていく。これが10や15などになると「ホット」な状態(つまり10から13やAがたくさん残っている)で、プレイヤーが数パーセント有利になるというのだ。この方法は、暗記や複雑な計算を必要とせず、集中力があれば可能だし、カードが6組になったところで困難さが増すこともない。

まず、チームの一人がテーブルにつき、少額でプレイしながらカウントする。テーブルがホットな状態になったら、フロアにいる他のメンバーにサインを送る。そして、そのメンバーが何食わぬ顔でそのテーブルに参加し、高額プレイで大儲けする。

これらは違法ではないが、チームプレイをやっていることをカジノ側に気づかれると追い出されるので、バレないようサインを前もって決めておく。また、高額プレイするメンバーは「暇を持てあました金持ちのボンボン」「田舎から出てきたエリート」「東洋から来た成金社長」などを演じる。そのために偽名を使うこともあり、変装さえする。

こうして大金を手にしていく彼らだが、ときに危ない目に遭い、実際に肉体的に暴行を加えられたり、脅されたり……。

MITの優秀な学生たちだから、統計を用いたスゴいことをするのかと思いきや、やっていることはこんな単純なことだった。こんなカウンティングだったら、自分でもやれそうな気がする。ちょっと一攫千金でも狙ってみるか。そんな気持ちになる人は多いようだが、たいていカモられて終わる。

「勝てそうだ」と思わせるのも、カジノ側の戦略なんだよね、きっと。

とてもエキサイティングで、読みやすくて、あっという間に読了。

2018年3月13日

おぞましい犯罪の記録 『死体処理法』


すべて犯罪がらみの「死体処理」に関するノンフィクション。冒頭には、白黒とはいえ、グロテスクな写真や絵が16ページにわたって掲載されている。

各章のタイトルを記す。

硫酸漬け殺人
死体焼却
人肉喰い
バラバラ殺人
生きたまま切り刻む
豚の餌になった死体
生石灰に覆われた腐肉
水中の死体
トランク詰め殺人

苦手な人は、これだけでもゲンナリくるだろう。いくつか引用するが、グロテスクな描写が嫌いな人はこれより先を読まないように。

まずは、ベネット検事と法医学者スピルズベリー卿の裁判でのやり取り。ベネット検事の質問に、スピルズベリー卿が答えている。
「何が入っていましたか?」
「衣類といっしょに、肉の塊が全部で三十七個入っていました」
「三十七個のバラバラの肉片ですか?」
「そうです。ひとつは右肩の後ろから切り取ったもので、肩甲骨と鎖骨の一部と上腕骨の一部が付着していました。骨はのこぎりで切断されていました。もうひとつの肉片は、臍のまわりの皮膚と脂肪と筋肉です」
「残りの三十五個は?」
「たいてい筋肉でした」
「五個の肉片から何が見つかりましたか?」
「五個の肉片には、陰毛とよく似たものが付いていました」
「何色でしたか?」
「金色でした」
「帽子箱から見つかった肉はゆでられていましたか? 実際にはどうだったのでしょう?」
「おそらく全部ゆでてあったと思います。もちろん、すべて人肉でした」
次に、少なくとも15人の子どもを殺したとされるアルバート・フィッシュ。彼は性的な快楽を得るために、殺した子どもたちを料理して食べていた。逮捕後の診察を担当した精神科のワーサム博士によると、
「まるで家庭の主婦が得意料理のことを説明しているようだった」
また、フィッシュは子どもたちだけでなく、自分をも傷つけて快感を得ようとしていた。特に陰部に針を突き刺すのが好みだったようで、レントゲンでは29本もの針が体内に残っているのが確認された。さらに、ときには爪の間に針を突き立て、排泄物を口にし、釘の付いた板きれで自分を殴りつけ、アルコールに浸した綿を直腸に突っ込んで火をつけることさえした。彼は死刑の宣告を受けるが、ワーサム博士は、
「彼の歪んだ精神は、最後に味わう究極の苦痛として、電気椅子を待ち望んでいるのです」
として死刑回避を嘆願した。博士の言葉どおりなのか、フィッシュは処刑される直前、電気椅子に体を縛りつける革紐を結ぶのを手伝ったそうだ。

身の毛のよだつ話ばかりで、また本文中にも何枚かグロテスクな写真がある。とても手もとには置いておけない本。

2018年3月12日

一昔前の新宿、飲み屋の世界に生きる男女を温かく描いた小説 『雨やどり』


バーやスナックといった世界で生きる人たちを温かく描いた連作短編集。どの作品も読み飽きさせないもので、直木賞を受賞したのも頷ける。

俺自身は、若いころから酒を飲みに行くのは居酒屋で、隣に女性が座るタイプの店は好きじゃなかった。また薄暗いバーもあまり好みではない。一人で飲むなら、人目をまったく気にせず黙々と、できれば本を読みながらというのが希望で、だから居酒屋チェーン店なんかが好みだった。43歳を目前に控えたいま、本書に出てくるようなバーを行きつけにして、ふとしたときに立ち寄っては一杯ひっかけて帰る、というのも良いかもしれない。

そんなことを思いつつ、実際には酒をやめたので、この先そういう機会はないだろう。それに、そもそもそういう飲みかたが性に合わないので、きっと長続きしない。

酒飲み世界を懐かしく感じながら、楽しく読み終えた。

2018年3月9日

巣立ち・旅立ちの3月。うつ病予防のため、送り出す人が知っておくべきこと 『うつ病と頭の中の喪失感』

精神科医・中井久夫によると、ある棋士が引退する際、それまでに覚えてきた棋譜が頭の中でガラガラと音を立てて崩れ去る、という体験をしたそうだ。似たようなことが自分自身の受験体験にもあり、大学に合格した瞬間に微分・積分が解けなくなった気がしたし、実際に問題を見ても頭が反応しなくなっていた。

こういうふうに、「不要なものが頭からなくなる感覚」というのは確かにある。

受験勉強で覚えたことが頭からなくなる程度のことですら、人によっては喪失感をおぼえるだろう。もしかすると、その喪失感が大学生のいわゆる「五月病」の原因の一つなのかもしれない。

もう少し視野を広げてみると、引越しや定年退職がうつ病の引き金になることがあるのも、新しい土地や次の人生に慣れないというのに加えて、この「不要になった知識が頭からなくなる喪失感」が関係しているのかもしれない。

この仮定が正しいとすれば(実際ある程度は正しいと思うが)、例えば仕事に関しては、引退する人に後輩たちが、
「きっと何かトラブルがあるでしょうし、その際にはご相談に伺います」
と声をかけて見送れば、立ち去る人に「知識を保つ意義」を与えることになり、「ガラガラと一気に崩れ去る喪失感」を体験させずに済むかもしれない。逆に、安心させるために「あとのことは心配いりません、任せておいてください」と声かけるのは、知識の崩壊を助長し、喪失感からうつ病へと至る危険性を高めるのではなかろうか。

「知識の崩壊と喪失感を防ぐ」

これは簡単なようで難しいが、きっと大切なことである。そのために、今の立場から大きく変わったところへ行く人に、
「あなたの頭の中にある“ソレ”が必要な時がくるかもしれませんから、大切に保管しておいてください」
というようなことを伝えておく。これは「頭の中の何かがガラガラと音を立てて崩れ去った後」ではダメで、あくまでもそうなる前でないといけない。

毎年3月は人生の転機を迎える人が多い。うつ病予防のためにできることとして、知っておいて良いことではなかろうか。


棋士の体験については、本書の中にあった。

2018年3月8日

他人の悲鳴を音符に置き換えるようなことはすべきでない 『臨床の詩学』


他人の悲鳴を音符に置き換えるようなことはすべきでない。
本書の中のすごく胸を打たれた一文。

大まかに2部構成になっており、前半は看護師向け雑誌(現在休刊?)に連載したもの、後半は単発の論考を集めたもので、どちらかと言えば後半の方に読み応えがあった。

中でも同感なのは、境界性人格障害をはじめとするトラブルメーカー的な人たちやクレイマーと、どう接していくかについて書かれた部分。まず第一が「その場しのぎ」。
話の通じない相手には、淡々と必要最小限の援助を提供し、それをも拒んだり曲解しようとするなら、たんに損得感情のレベルで「こうしたほうがあなたにとってベターですよ」と告げて引き下がる。
入院患者の場合、「こういうことをしていると、あなたにとって損ですよ」ということだだけを告げておいて、あとは多くを語らない。それで行動が改まらない場合、淡々粛々と行動制限を開始する。このほうが患者の身にもしみるようだし、こちらの精神衛生にも良い。こうしたことについて、本書の著者はこう言いきる。
我々は「善人ごっこ」をしているわけではないのである。
日々の業務に疲れている対人援助者にとっては、一服の清涼剤になるような一言である。 

2018年3月7日

グロテスクな一冊 『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」』


すごくモヤモヤする一冊で、Amazonでは高評価だが俺は本書に対しては批判的である。

平成13年にレッサーパンダ帽の男が起こした殺人事件のルポである。俺がすごくモヤモヤするのは、著者がこの犯人Yは自閉症であったとほぼ決めつけて話を進めているところ。著者は本文中では何度となく「医師でもない自分が診断を下せるわけもないが」といったことを書いているが、実際の中身としては加害者Yは自閉症であるとして持論が展開されている。

確かに、自閉症や精神遅滞の容疑者・加害者を取り調べる際には、警察や検察の「創作」「作文」が入り込みやすいのだろうし、そのぶん冤罪の危険性も高まるだろう。だから細心の注意を払う必要がある。その点については大賛成だ。

しかし、あくまでも本件に関して言えば、冤罪ということはありえず、また責任能力についても、本書に記載された加害者にまつわるあれこれのエピソードを読んだ限りではあるが、俺が簡易鑑定を担当したなら「完全責任能力あり」と判断するだろう。

裁判では真実を明らかにすることが大切、と言う。本件での真実は、このYが見ず知らずの女子短大生を殺害したということである。ところが弁護士も著者も動機にこだわる。殺人事件の動機なんか重要ではない、とは思わないが、本件と本裁判においては弁護側も著者も些事に捕らわれすぎているように感じられてならない。

思うに「精神障害者の事件・取り調べ・裁判」といったテーマを掘り下げていくのに、本件はふさわしくなかったのではなかろうか。著者の「精神障害者と司法」に関する日頃の考えと、本件の裁判を傍聴し続けた故の思い入れの深さ、この二つが混じり合ってこんなグロテスクな内容の本ができあがったのだろう。

少々皮肉めいた言い方になるが、精神障害者の犯罪に対する偏見と憤りを深めたい人にはうってつけの本かもしれない。しかし、その真逆にある、精神障害者の支援者的な感覚を持つ人にとっても「人の振り見て我が振りなおす」ために読んでおいて損はない一冊。

2018年3月6日

メリットのメリットを伝えよ! 『アイデアのちから』

「メリットのメリットを伝えよ」

広告業界にはこんな言葉があるそうだ。

例えば、消費者は「直径6ミリの電動ドリルを欲しい」わけではなく、「子どもの写真を壁に飾るための直径6ミリの穴が欲しい」のだ。あるいは、「世界一の芝の種が欲しい」わけではなく、「きれいな芝生の庭が欲しい」のだ。

精神科でも同様のことが言える。初心者や詳しくない人は、幻聴を消せば良い、意欲を改善させれば解決だろう、といったふうに「症状をなくす」ことに目を向けがちだ。しかし、多くの患者が求めているのは症状を消すことではなく、「健やかに生活できること」である。そこを主眼にすると、違ったものが見えてくる。

そしてこれは精神科だけでなく、例えば身体リハビリなどでも有用な視点だ。「手が動くようになったら良いと思いませんか」ではなく、「昔のように料理ができるようになりませんか」といった言葉のほうが、リハビリ患者に意欲や未来図を持たせられるはずだ。


上記は本書の一部から広げた考え。精神科分野に限らず、ヒント満載の良書である。

2018年3月5日

心理療法における支持とはなにか? 『心理療法における支持』

精神科医になりたてのころは、かなり薬物療法に偏ったというか、薬に頼りきった考え方をしていた。
「これだけ良い薬が出ているんだから、今や言葉で治す時代じゃない」
大雑把に言えば、そんな風に思っていた。

あれからいろいろ経験し、言葉の力に何度となく驚かされ、精神療法の大切さ、面白さをつくづく感じる現在である。駆け出しの時の薬物偏重の姿勢は、「自分自身の言葉に対する自信のなさ」の裏返しだったのではなかろうか。ではいまは自信満々かというとそうでもないが、少なくとも、「薬」と「言葉」が診療の大切な両輪であることは自覚している。

俺とは逆に、駆け出しのころは精神療法に憧れ、薬物療法には消極姿勢だった医師が、歳を重ねて薬物療法も駆使するようになる、ということもあるだろう。きっと、どちらが良い悪いということはない。最終的な到達地点として、薬物療法と精神療法とでバランスのとれた医療を提供できるようになれば良いのだ。


18人の筆者が、それぞれの思う『支持』についてエッセンスを語る形式。『支持的精神療法』という曖昧模糊としたものを、もう少しきちんと知りたいと考えている若手の精神科医にとっては、とても参考になる一冊。

2018年3月2日

病める人の健康な部分に目を向けるために

精神科関連の本を読んでいると、
「患者の病んだ部分ばかりではなく、健康な部分にも目を向けよう」
といった記述をよく見かける。さて、これはどういうことだろう。

まず、身体を例にとってみよう。身体の不調から食事がまったく取れなくなって入院した患者が、徐々に回復する。すると、その患者について、
「○○さんは好き嫌いが多い」
という少々批判めいた意見が出ることがある。もともとは食事がとれずに入院した患者なので、食べものの好き嫌いを言えることは大いに前進なのだが。

さて、肝心の精神科について。興奮状態で家族の手に負えず、医師も看護師も関係なく攻撃的な患者がいるとする。入院は保護室からスタートで、落ち着きを取り戻して閉鎖病棟へ移り、しばらく経過する。精神科医が患者と話すと、かなり状態が良いように感じられる。そこで、スタッフに対して、
「だいぶ良い感じですね」
と言うと、猛反対を食うことがある。
「あの人、先生の前では“イイ顔”をするから」
そして「ずるい」とか「いやらしい」とか、そう評価を下してしまう。しかし、身体の例と同じで、この患者についても、「医師と看護師の区別さえつかなかった状態」から、「医師の前では取り繕い、看護師にはワガママな部分を見せる」、そんな裏表を持てるくらいに回復しているということなのだ。

入院したときは無表情で涙さえ流さなかったうつ病患者が、しばらくして一日中泣いて暮らすようになれば、それは感情を表出できるようになってきたという回復の証であるし、アルコール依存症の患者が入院して性欲を前面に出すようになれば、それは酒によって低下していた男性機能の回復だろう。

「健康な部分に目を向ける」とはよく言われることだが、目を凝らして健康部分を探すとなると案外に難しいものだ。もっとシンプルに「変化したことは、すべて良いもの」という極端な前提で考え、解釈し直すと「健康な部分」が見つかりやすいかもしれない。

2018年3月1日

依存症患者は、無意識のうちに、自分の抱える困難や苦痛を一時的に緩和する物質を選択し、過酷な今を生き伸びて「死なずに済んでいる」のではないか 『人はなぜ依存症になるのか』

トピラメート(商品名トピナ)という薬がアルコール依存症に対して有効かどうかの研究がなされた。対象患者の半数にトピラメートを、残り半数にはプラセボを内服させたところ、トピラメート服用群のほうが改善の程度が顕著であったが、プラセボのほうにも改善は見られた。

興味深いのはここからで、この研究プロセス全体を通じて、最も飲酒量の減少が見られたのは、なんと待機期間(研究の対象となる患者を予備選抜して正式に研究登録するまでの期間)であった。予備選抜の過程で、研究者と患者が飲酒に関して丁寧に話し合いをしたことが、患者の飲酒問題への認識を高め行動を変えた可能性があるのだ。

さて、依存症について「自己治癒仮説」というものがある。アルコールをはじめとした依存症患者は、無意識のうちに、自分の抱える困難や苦痛を一時的に緩和する物質を選択し、過酷な今を生き伸びて「死なずに済んでいる」のではないか。これが依存症の自己治療仮説の中にある考え方である。そして自己治療仮説は、依存症というものを、
「患者が自分で引き起こしたもの」と決めつけるのではなく、「まちがった方法であったかもしれないが、問題を解決するための試みであった」と捉えることを可能とする。
そこで治療者は、
依存症患者に対して、「その薬物をつかってどんな風になったかではなく、その薬物があなたに何をもたらしてくれたのか」を尋ねる必要がある。

本書は非常に良い本だと思うが、値段のわりに誤字が多すぎる。1‐2ヶ所なら許容範囲だが、こうも多いと辟易する。訳者・松本先生の責任というより、これは編集者の怠慢だろう。もう少し丁寧に読んでチェックした後に出版すべきだ。